とるにたらない話

日常の記録や思考のあれこれ

ケーキの自由

 

 

ショートスリーパーになりたい。少ししか寝なくても何とかなりたい。鎮痛剤と無縁の健康優良児になりたい。甘党になりたい。アフタヌーンティーを楽しみたい。食いしん坊になりたい。いっぱい食べる君が好きの「君」みたいな人になりたい。朝から軽やかな気持ちになりたい。毎朝夜の気分がリセットされる人間になりたい。朝晴れやかな気持ちで1日を迎えてみたい。穏やかな人になりたい。感情の波が緩やかで、容量の大きい人になりたい。好奇心旺盛な人になりたい。色んなことに目を輝かせる人になりたい。

 

なれない、なれない、なれない、を日々淡々と繰り返している。

なれているものはあるし、持ってあるものもある。きっと十分にある。それでも、ないものねだりだと分かっていても、欲しいものは欲しい、と駄々を捏ねたくなる時もある。他者と比べなければそんな欲も願望も生まれないのかもしれないけれど、他者のいない世界など住むことができないのだから、そんなことを言われてもどうしようもない。人は人、自分は自分、が自分のなかで成り立つものもあるし、成り立たないものもある。

ただ、こんなことも、考え飽きる日が来るのかもしれない、と書きながら思う。オードリー若林氏のエッセイで、悩むのにも体力が要るから、歳を取るとあんまり悩み過ぎなくなってくる、悩み続ける体力がなくなるからかもしれない、みたいなことが書いてあった(とは言え若林氏だって多分悩みの種類と質と量が変わっただけで今も色々ずっと考え続けてるんだろうなとLIGHTHOUSEを見て思ったけど)。

あと10年したら、20年したら、50年したら今考えている諸々も、その辺に落ちている埃ぐらいのどうでもよさになるだろうか。まあ、今の私には埃にはならないので、考えたいだけ考えるのだけれど。

 

誰かが欲しいものを私は持っていて、自分の"なりたい"は誰かにとっては取るに足らないことで、自分が十分恵まれていることもまた、理解している。だからやたらと言わないようにもする。言うところを、言う人を選ぶ。

誰かにとっての切実な生きづらさや、そこから来る欲求は、他人からすれば贅沢な悩みでないものねだりの欲深い願望で、「そんなのが悩みとかふざけてんのか」みたいなことにも、全然なる。人の悩みは簡単に相対化されるし、価値付けされてしまう。まあそりゃあそうだ、と思う。マズローの欲求の第一・第二段階(生理的欲求・安全欲求)を満たせていない人からすれば、第五段階(自己実現欲求)の話をしている人なんて見たくもないだろう。「なんかさぞかし幸せそうなお悩みで良いですねぇ…」となる。そりゃあそうだ。

だから、こんなことを考えていると (そんなに持っているのに、まだ欲しいのか) とまず頭の中で鳴る。多分、他人に思わせてしまう前に、頭の中でそれを鳴らす癖が過度についている。それは多分、自分が"持っている"側にいる自覚が強いからだ。

 

確かに、持っている。持っているものが沢山ある。恵まれている部分の自覚は持たなくてはならない。ただ当たり前だけれど、持てないものも多くある。ただ、それは全体的に他人から見たら取るに足らないものだろうなと思う。もしくは、理解しづらいもの。

他人からしたら他人の悩みは米粒程度に見えたりするのは「そりゃあそう」なんだけど、それでも、誰かからすればものすんごいどうでもいい悩みや欲求や願望だとしても、当人にとっては重要であるということは山ほどあって、かといって別にそれを他人が分かってあげる必要もなくて、必ずしも社会が拾い上げる必要もなくて、それでも別に、それを本人が軽く扱わなくちゃいけないこともないと、同時に全部そんなことを思う。社会的に見て、相対化された時にそれがどんなちっぽけなものでも、取り扱う必要を感じられないものでも、本人はそれを大事(おおごと)として扱う権利はある。けれど、同時にそれを、別に必ずしも他人が尊重してあげる必要もない、と思う。けれど、本人はいくらだって、それがミジンコサイズの取るに足らなさであっても、それをだいじにしていい、とも思う。繰り返し繰り返し同じようなことを言っているけど、この辺すごく難しいなとよく考えるから、何回でも繰り返してしまう。

だから、私は自分の"なりたい"をせめて受け止めてやろう、と度々言い聞かせる。くだらなくても贅沢な考えごとでも、その"なりたい"をゆるしてやろう、と思う。どの"なりたい"もばらばらだ。その切実さも、なりたさも、なれなさも、ばらばら。色んななりたさとなれなさを取り出して眺めては、また鞄の奥の方にしまう。どこまでもついてくるままならなさは、ずっと出して見ていたら疲れてしまうし、どうにもならないから、とりあえずは奥にしまっておくのがちょうどいい。

 

なろうと思って頑張ればなれる類のものと、そうでないものがある。そして、どうもこの社会は前者に沢山のものを振り分けたがる。やればできる、頑張ればなれる、そういうのが好きだ。代入すれば誰でもできる方程式みたいに適当な方法をいろんな人が無責任に色んなところに置いていく。そういう方程式を得意げに掲げながら「すべては自分次第」とか言う人にいつもいつも「うるさいなぁ」と思う。前者に勝手に振り分けるのは自分の分だけにしてくれ、と思う。たしかに何でも後者に振り分けていたらつまらないし、自分の手元にあるものから変えられるものも多くある。けれど、どうしたってなれないものも、できないことも、手に入らないものも、普通にある。「自己責任論」なんて分かりやすい悪そうな名前がついてもなお、この社会は、この国は、何でも前者に振り分けるのが未だに大好きだ。

 

ただ、別にそのなれなさに浸って、可哀想になりたいわけではないのだ。なんか、"弱さ"の話をすることって難しいなと度々思って、弱さの話をすると、なんだか「私はこういう部分が弱いので、ちょっとしんどいんです…」みたいな、弱さを前面に出して(気を遣って欲しい)、(分かって欲しい)みたいな、空気感が言葉から出てしまいがちで、そのつもりはなくてもそう滲んで見えてしまいそうで、難しいなと思う。その位置に行きたいわけではない。でも別に、そういう語りをまとめて下げたいわけでも決してない。しんどいことをしんどいと言う場もあるべきで、おかしいことをおかしいと言う場もあるべきで、その気持ちにじっくり浸ることも、拾い上げるべきものとして問題提起することも大事だ。だから、その辺りの話とこの話は一緒にしてはいけない。近い話をしているから明確には分けられないけど、それでも、これはただの私の話で、他の切実な誰かの弱さの話を「それ弱さやしんどさに酔っているだけでしょ」とか勝手に片付ける話に聞こえてはならないので、ここは丁寧に書いておきたい。

 

ただ、私のこの話に限っての場合、「なりたいよね」「でもなれねぇんだなあ」と言いたいだけなのだ。他者からすればくだらなく取るに足らないことが、自分にとってはわりと切実だったり、けれどその切実さのサイズ感は他者には分からないものだったり、相対的に小さいものだったり。もしくは別に全然真剣でも切実な話でもないけれど、なんかずっとある"なれなさ"とか、それを持っている人への羨望とか。でも、切実さを滲ませた瞬間、それを軽く取り扱ってもらうこともできなくなるだろうし、それもそれで面倒だから他人の前では適当に扱うのがベターとか。そういう話。そういう話を、フラットな位置でしたい。そういうことってなんか、あるよね、みたいな位置。

そんなわけでここからは、少し自分語りをする。今回は、食べ物の話。

 

 

小さい頃、祖母の家で甘い物を食べるのが苦手だった。いや、正直に言えばそもそも、祖母の家で(というか父方の実家で)ものを食べる行為自体がすべて苦手だった。

甘いものは好きだ。けれど、甘いものが苦手だ。矛盾しているようだけど私の中ではそれは成立して、甘い味は好きだけど、食べたいと思うけど、一定量を超えると途端に気持ちが悪くなる。胃というより、むしろ肺ぐらいの位置が気持ち悪くなる。身体が甘い物をこれ以上体内に入れることを拒否している、と思う。だからいつも、外で甘い物を頼む時はものすごく慎重に吟味する。甘さのパーセンテージと、量のバランスを見て頼む。甘さパーセンテージ90%で量がレベル5中の5のスイーツは私にとっては雲の上の存在なので、甘さパーセンテージ70の量レベル1.5ぐらいがベスト。そういう計算を常に頭の中で繰り広げてメニューと睨めっこする。

そんな感じで、今も私の甘味のキャパシティは狭いけれど、小さい頃は今よりもずっと狭かった。そもそも生クリーム自体が苦手だったし、生クリームがもりもりに盛られているショートケーキを見るだけで、「クリームがいっぱいだ……」と後退りたくなっていた。でも、チョコレートケーキは好きだった。我ながら訳がわからない。でも、好きなチョコレートケーキすら半分でちょうど良い。「ケーキ」は私にとっては「半分までは(正確には3口目ぐらいまでは)美味しいけれど、後半は気持ち悪さと格闘しながら食べるフードファイト系の食べ物」だった。

 

子どもの頃、祖父の誕生日にも、祖母の誕生日にも、お誕生日祝いでケーキを買って祖父母宅の家に向かった。ケーキを買ってお祝いをする。めでたい、めでたい日。めでたいけれど、いつもどこかで憂鬱だった。その頃は憂鬱だなんて言葉も、自分の中に埋もれた重さに「憂鬱」という名前がつけられることも知らなかったから、ただなんとなく楽しみになれない感覚だけがあった。そしてそれがたぶんあんまりよくないことなのだ、という後ろめたさも。

祖父母の家に行く。花束を渡す。「お誕生日おめでとう」と祝って、みんなでケーキを食べる。ケーキは美味しかった。途中まで。フードファイトを試みるも、どうしたってやっぱり気持ち悪いものは気持ち悪いので、私は飽きてくると「ケーキ、あきちゃった……」と父や母に残りのケーキを渡していた。そんな私に祖母はいつも「贅沢なことを……」と言った。「昔は甘いものは滅多に食べられなくてたまのご褒美だった」「ケーキは贅沢な食べ物で…」そう続いていく言葉も、遠回しに投げられる自分への否定も、私は聞こえないふりをした。

 

 

今でもそりゃあそうだろうな、と思う。甘くて美味しい贅沢品のケーキを、途中で残す私は"贅沢"だ。

当たり前だけれど、祖母は私と生きてきた時代が違う。祖母にとって「ケーキ」は「贅沢な食べ物」だ。食べるものに困ったこともない、甘いものもお店に行けばいくらでも売っている時代に生まれた私と、生きるのに必要な食べる物ですら足りず、少なく、ましてや甘いものなんてものすごく希少であった時代を生きてきた祖母。生きて育った時代が、見てきた世界が違う。その点において私は恵まれた時代の人間で、いつも「なんもいえないな」と思っていた。言えるわけがない。ケーキは甘ったるくて飽きるから途中までしか食べたくない。あまりに弱すぎる。勝ち目がない。あまりに自己都合で、あまりにわがままで、あまりにも「本人が頑張ればどうにかなる」感がありすぎる。そういうのは、弱いのだ。圧倒的正しさの前で、圧倒的に倫理的に敗北している感覚。どう考えても何も言えないし、私がわるいのだろう、と思っていた。

 

ただ、同時にすごく、ものすごく、なんかいやだな、とも思っていた。だからこそ多分、こうやって今も私の記憶に残っている。

それは今の私の頭の中にある言葉を当てはめれば「理不尽だ」という感覚だったと思う。どうしようもできないものを、どうしようもできない理屈で責める行為は、すごく、狡い。私が甘い物を沢山食べると気持ちが悪くなる身体的性質は私にはどうしようもできないことで、それは私の腕を切れば血が出るのと同じぐらい、私には自然で、不変なものだ。けれど「甘い物を飽きたなどと言うのは贅沢だ」と、「食べるものに困ってきた、甘いものが贅沢品だった時代の人」が言うのは、どう考えても正しさを持ってしまうからこそ、形式的にはとても、狡い。しかもそれを「祖母」にあたる人が、反論能力を持たない「子ども」、しかも「孫」に言うという行為は、今の頭で考えれば、それはやっぱり狡いのだ。

けれど幼い私にはそんな狡さは分からないし、ただただ「わがままで贅沢で苦労知らずな子」の烙印を押されるがまま、「まあわたしがわるいんだろうな」と思うしかない。正しさを1ミリも味方につけられない息苦しさは、抜け方が分からない。小さい箱にぎゅうぎゅうに正しさと一緒に詰められるような、周りをどかしようもないものに固められる窮屈さ。それに対抗できる武器を持たない限りは詰められておくしかない。「あーあ、はやく、かえりたいな」と思うしかなかった。

 

そういう感覚は、言語化されずに身体の中に溜まっていくのだろうな、と思う。だからこそ私は、言葉という味方をつけた今、こんなことを書いている。正しさと一緒に箱詰めにされる感覚は閉塞感がすごくて、私は祖母といる時いつも、いつ正しさの矢が飛んでくるか、それがどんな方向から、どんな理由で飛んでくるのか、とずっと気を張っていた。偏食で少食だった私は、食事において正しさを持てないことが多かったから、食事の時間はいつもぴん、と糸を張っているような警戒状態だった。今日の食事に何が出てくるか、何を言われるか、それを防ぐために何を試みるか。食べられないものを渡すために、父や母の隣に座るのは私の中の暗黙の鉄則だった。それでも防げない時は口も胃も私の身体の何もかもが欲してないものを食べるという選択肢を取るしかなかったし、その時間が苦手だったし、苦痛だったし、早く終わりにしたかった。早く終わらせて、習い事のピアノの話とか、美術で作って作品展に選ばれた作品のこととか、そういう祖母が喜びそうな側面の私を出せる時間に持っていきたかった。これなら好きでしょ、この私なら好きでしょ、ほら、こうしたらいい、ここを見せたらいい、と無意識に「祖母の好きな私」に誘導していた。祖母の正しさから逃げたかった。書きながら、祖母とそれなりに距離のある育ち方をしていて良かったな、と思う。

 

 

こういう記憶が、どうしたって頭の中に、身体の中に埋まっている。ので、たとえばスイーツビュッフェで盛り盛りに2皿分ぐらいスイーツを乗せてくる人も、「苦手なものはある?」と問われて「ないです!何でも美味しく食べられます!」と笑顔で答えられる人も、ご飯をためらわず大盛りにできる人も、どんな店でも躊躇なく入れる人も、めちゃくちゃ眩しく感じてしまう。シンプルに羨ましい。今でも私は「美味しくものを食べる」こと全般に苦手意識があるから、初めてのお店に入る時に何の抵抗も緊張も不安も感じないこと、メニューを見た時にご飯を選ぶ行為が消去法にならないこと、1000円ぐらいのパフェを最後まで美味しく食べられること、全部羨ましくて、健やかで、眩しい。

眩しく思うと同時に、自分がそうあれないことなんて、とうに諦めはついているはずなのに、いまだに少し何かが擦り減る感覚がある。「いいな、私もそうあれたらよかったのにな」と内側の柔い私が純粋に反応する。中学の修学旅行の時、食べたい気持ちのまんま大きい抹茶パフェを頼んで死ぬほど気持ち悪くなりながら完食したこと、二度とでかいパフェは頼まないぞと決めたこと、子どもの頃の法事の時、食べれない和食だらけのご飯を前に困っていたら親戚のおばさんに「お育ちが良いのねぇ」と皮肉を言われたこと、何が出てくるか分からないコース料理が恐ろしいこと、そのせいで結婚式に呼ばれてもどこか憂鬱なこと、推しのディナーショーですら憂鬱と楽しみを天秤にかけて後者を勝たせられる自信がなくて行けないこと、アフタヌーンティーに誘われると嬉しいけどつい微妙な反応を返してしまうこと、友人にご飯に行くたび楽しみと色んな面倒さ(あらゆる気を使うことと使わせること、使わせないようにまた気を使うこと)をつい天秤にかけてしまうこと。色んなものが私の中に蓄積されていて、それらを全部軽く受け流せたらよかったのに、軽く扱えたら良かったのに、そうできてこなかった自分が面倒で、弱くて、いやになる。でもそんなことをいちいち滲ませていたら気を使わせるので、なんてことのない感じに演出をする。別に自分の中で軽くなんて消化できてないくせに、できていることにする。みんなそんなものかもしれないけど、なんかもうそういうの一切合切ぽいってしたいのに、食は生活に結びつくから、1日に何度も訪れることを生きている間は繰り返していくから、永遠にぽいっとはできない。だから、ずっと私はこのままならさを、面倒臭さを持て余している。

それをわかって欲しいとも思わないし、分かってもらえるとも思わないし、そういう諸々を「面倒くさいね」「わがままだね」「そんな気にしなくて良いんじゃない?」の一言で片付けられる人もいることも知っているから、わざわざ開示しようとも思えない。特にそのトピックについて考えたことがない大半の人にとって大概の他人の特殊な事情は"面倒"なものだと知っている。それを個人の責任の範囲に収めること、個人が「努力次第でどうにかできるけどやっていない」ことに収めて「わがまま」の枠に入れ込むこと、笑いに流す方が楽なことも知っている。いちいち自分の普通を疑うのは負担が大きいし、そこから社会の前提を問い直すなんてこと、大半の人間はやりたがらない。私だって知らず知らずのうちに、違うトピックではそれをきっと他人にやっているのだ。

だから、軽いノリで「そうなんだよね〜あはは」で返すのも別にいいんだけど、そればっかりやっていると、じわじわと内側で何かが腐りそうになる。この世界で一番私の"面倒さ"を"面倒“だと思っているのは私だし、軽く扱おうと試みてきたのも私だし、その何が分かるんだろう、と思うけど、何も分からないだろうし、分からなくて当たり前なことも知っている。けれど、何度も既視感のある感情とか他人の反応とかに心の中で薄ら笑いを浮かべながら付き合うことをずっとやるのもやっぱり慣れずに疲れるのだ。

かと言って他人に理解してもらう労力を割かせるのも悪いし、私とて説明をして徒労に終わる虚無感を頻繁に味わいたくもない。だから、大体は適当に、いい感じにする。大半の人には自分に負荷がかからない程度に説明して、相手に気を使わせない程度にゆるっと平気そうな感じに伝えて、調整をする。

 

社会の標準規格に当てはまらない性質を一つ以上持っている人間は多分、そういう小さな諦めを常日頃持ち歩いていて、別にそれに毎日何かを思うわけでもなくて、ただ淡々と諦めているし、ずっと前の段階で望みは絶たれているので、ベースがぼんやりとしたあたりまえの絶望にあるんじゃないかと思う。字面として「絶望」とか書くとパンチが強いけれど、単純に「こうでなくありたかった」とか「こうあっても"普通に"何も言われず生きられる社会が良かった」とか、そういう"望み"がどうにかなる可能性が"絶たれて"いて、すでに過去形の形をしているから、状態としてそう("絶望"という状態に)なる、という意味での絶望。目の前が真っ暗とか真っ青とかそんな派手なものじゃなくて、自分の心のどこかに、どかせることのない灰色の何かが横たわっているとか、ずしんと沈んでいるみたいなそういうもの。別に毎日見に行って認識するわけでもないけど、ただ当たり前にそこにある。そういうものが、いくつかごろごろある。ある人には沢山あるだろうし、ない人は多分何の話をしているかすら分からないんだろうなと思う。

 

 

「なりたい」はそういう、よく分からないけどいつからか存在してしまっている何かから、湧いて出るんだと思う。自分の奥に埋めているものからむくりと時々顔を出す。欲求と最初の方で書いたけれど、叶うことがないと思っている(染み付いている)ものを欲求と呼べるのかわからない。対象に対する羨望とか、淡い憧れとか、そういう、欲とか願望とか期待とか以前のものでしかないから、そう呼ぶのもなんか違う気がする。いや、その「なりたい」にはもしかしたら叶うかもしれないものも含まれるかもしれないし、たとえば今回出した食の話だって、身体的性質とはいえある日突然舌の性能が変わる可能性だって、ないとは言えない。ただ、問題はたぶん、実際実現可能性がどのぐらいあるかとかいう話ではなく、私自身が多分、心の底から「なれないだろうね」と思ってしまっていることなんだろうな、と思う。なれない、なれない、なれない、を積み重ねて染み付きすぎて、この種の「なりたい」はもうほぼほぼイコールで「なれない」なのだ。そう変換されてしまう。でも、完全にイコールにはなってくれないから、完全には諦めきれずに、懲りずに、つい「なりたい」と思ってしまう。自分という生命体のままならなさを受け入れるのではなく、そうでない世界を羨んでは望んでしまう。厄介だ。

 

 

けれど、なんかそういうの丸ごと「まぁ、なんかさ、そうなんだよね」と思えたらいいな、と最近は思う。いちいち毎日めくって、なれなさなんて見てたら疲れてしまうけど、ふと「なりたい」とか「なれない」とか、そういうものが顔を出した時、自分ぐらいは「なりたいよねえ」「でもなれねぇんだよなあ」「なりたかったねえ」と、思ってあげられるといいなと思う。なりたいし、なれないし、なりたかったし、なれなかったけど、でも「そうなんだよなあ」と思えたらいいなと思う。否定でも肯定でもなく、ただそこにあるなりたさとなれなさを、許容できたらいい。

いつか全てがどうでも良くなるかもしれないし、いつかカラッと諦めがついて完全に笑いごとに収められるかもしれないし、いつかスーパー最強自己受容マンになって「や〜そんな色んなところがあるけど総合的に私って最高に可愛い生き物だしこの際何でも良くない?愛おしいじゃん?」とか思えるかもしれないけど、今のところはまだ決着がつかなさそうなので、気長に付き合っていけたらいいなと思う。私は私のことが面倒だし、自分の社会の標準規格にはまらない部分が面倒くさいし、擬態して済めばいいけど擬態すらできない領域だと本当に面倒になるし、そのたび世界と自分のどちらともが憎たらしくなるし、とにかく「自分という生命体を生きるの、めんどくさ〜」と思うことはまあそれなりにあるけど、それでも私はなんだかんだ、今の自分という生を気に入ってもいるのだ。気に入りたいと思っているし、好きでいたいと思っているし、大事にしたいと思っている。どうせ一番長い付き合いをしていくのなら、仲良くしたいじゃないかと思う。仲良くなりたい。

 

 

 

今の私はケーキが好きだ。自分で買うケーキなら、甘さも大きさも好きなように選べるし、その日たまたま甘ったるそうなケーキが食べたくなったら、翌日に残してまた食べれば良い。苺のタルトもチーズケーキもモンブランもショートケーキも、食べたかったら買うことができるし、好きな量だけ食べられる。好きなものを好きなように食べる自由が、美味しいと思えるものを美味しいと思えるように食べられる自由が、大人の私にはある。私は、子どもの頃に享受できていた、何もしない代わりに決まったものを与えられる楽さよりも、今自分で得られている、何かをする代わりに自分で好きなものを選べる自由の方がずっと相性が良くて、息がしやすい。「遊んでばかりいられる子どもは楽」だなんて大人になった今も思わないし、全然戻りたくもない。色々面倒なことは増えるし考えることも増えるし、これからもっとそれは重くなるのかもしれないけど、それでも、私が私として生きることを容易くする術を探すことができる大人の方が、性に合っている。

 

ケーキの甘さを、今の私は幸せに味わえる。飽きることに怯えることも、美味しく食べたい気持ちすら分からなくなることもなく、今の私は、好きなケーキを好きな時に、好きなように美味しく食べられる自由がある。甘い幸せをちゃんと味わえる。小さい私に言ってあげたい、大丈夫、あなたはそのうち好きなようにケーキを食べられるし、混じり気ない純粋な気持ちで、素直に美味しいと思えるよ。今のあなたにはくだらなくないし、切実かもしれないけど、そのうち軽い気持ちでケーキを買って、軽い気持ちでケーキを食べて、次の日にもまた残りを食べて「朝のケーキは胃に来るな〜」とか思ったりするから。残念ながら胃はもたれたりするけど、それでも、食べたい時に食べるケーキはいつでもちゃんと美味しいから。

 

残り少ない今年も、来年も再来年も、自分の誕生日にも推しの誕生日にも、嬉しいことがあった日にも、ただケーキが食べたくなった日にも、好きなようにケーキを食べたら良いと、今の私は知っている。好きな甘さを好きに選んで、好きなように甘やかに生きていこうね。

 

 

 

バケツは投げて待て

 

悲しいという感情を、よく感じるようになったな、と思う。舞台が中止になるたびに「悲しい」と思うその感情に、相変わらず慣れないなという話。そんなもの慣れたくもないけど。喜怒哀楽のなかで一番苦手だ、哀。悲しみ。

自分の行く舞台が中止になって、悲しい、悲しい、あー、悲しい、と毎回、ひたすら思う。希望と、楽しみと、期待と、そこで感じるはずだった喜びと、楽しさと、時には怒りや悲しみと、観終わったあとの感動と、感謝と、そこに辿り着くためによいしょよいしょと乗り越えてきた日常の色んなものを思って、悲しくなる。何だったんだろう、と思う。

そして、ああ、だめだ、それに呑まれるな、と思う。

 


私にとって楽しみにする、ということは、「中止になるかもしれないな」をあまり頭に浮かべないようにすることでもあって、まあそりゃあ完全によぎらないようにするのは無理だけど、それでも、最初から少し心のバリアを張っておく、みたいなことを、どこか子どもみたいに避けてしまう。楽しみに待っててくださいね、と言われているのだから、そうやって信じて作ってくれているのだから、私はちゃんと心から信じて楽しみに待とう、と子どもみたいに、どこか意地を張りながら、いろんな可能性を分かっていながらもそいつらをポイと放り投げてしまう。そんな懸念を持っててたまるか、と。推しが出る舞台は特にそうかもしれない。推しが楽しみに待っててと言うのだから、劇場で待ってると言うのだから。これはもちろん、そんなことを言うなという話ではなくて、むしろ信じさせてくれる言葉をくれることに救われる人間で、未来なんて常に不確実で、分からなくて、それでも信じたいと思わせてくれる言葉は希望だから。
だから毎回、馬鹿みたいに素直に楽しみにして、素直に悲しくなってしまう。突然後ろから槍に貫かれて、その槍は私の中にずっと楽しみに埋めていたチケットを刺して持って行って、私はその槍の先端に捕まったチケットを見て、あぁ、また持って行かれた、と思う。なんなんだ、おまえは。簡単に持っていきやがって。誰なんだ。槍め。

 

 

 

「私の悲しみは私のもの、誰かの悲しみは誰かのもの」
このご時世になってから、よく自分に言い聞かせている言葉のうちのひとつ。こういう時、繰り返し脳内で再生する。

作品を一生懸命作ってきたカンパニーの人たちは、私以上に作品をこちらに届けることを信じて、幕が上がることを願って、万全の対策をして、作品を磨き続けて、それでも、幕が上がらないことがある。多分私よりずっと悲しくて、大変で、無念で、悔しくて、辛いことなんだろうと思う。やれることをやる、とこちらには力強く伝えてくれるけれど、それでもそこまでの時間を思うと辛い。どれだけ作品が素晴らしくても、どれだけ才能ある役者さんやスタッフさん達が集まって懸命に頑張っていても、その作品の幕が無事に開き続けるかどうかは運でしかない。そのわけのわからなさに、毎回、本当にわけがわからない、と思う。

ただ、自分が悲しい時に他の人の悲しみまで想像してしまうと、私は簡単にその足し算された悲しみの負荷に負けてしまうから、その度にその言葉を繰り返す。私の悲しみは私のもので、まずはそれが大事で、相対化する必要もなくて、私にとっての悲しみは、私にとって悲しい、というだけでいいのだ、と。そして、私が悲しい時、他の人の悲しみまで範囲を広げるのはとても危険なことだと。自分の悲しみの分のバケツで手一杯な時に、他の人の悲しみのバケツの水まで注いだら、溺れて戻ってこれなくなってしまう。だから私は私の分の悲しみを持っていればいい。そもそも、誰かの悲しみを大事にするためには、自分の悲しみを大事にしないことには始まらないと思うから。自分のそれを蔑ろにしながら誰かのそれを尊重できるほど、私は人間ができていない。だからまずは自分の悲しみをちゃんと悲しむこと、と毎回言い聞かせる。

 

 

役者さん達に、楽しみにしてくださっていたのにごめんなさい、と言われるたびに、謝らなくて良いのに、と思う。当たり前に誰のせいでもない。でも確かに、自分がものすごく何かを頑張って作っていて、その先にそれを楽しみに待ってくれている人がいることを知っていて、でもそれが届けられなくて、その人が悲しむとわかっていたら、それは自分のせいではなくても謝りたくなってしまうな、とも思う。それは、悲しい、あなたに届けたかった、と思う気持ちなのだろうとも。だから、分かった、と思う。「ごめんなさい」を受け取る。それはきっと「見て欲しかった」だと思うから、私も「うん、見たかったよ」と思って、受け取る。本当は"その日"に受け取れたはずのものは受け取れなかったかわりに、その時にくれた、その言葉を受け取る。必要な謝罪ではないし、それを求めてはいないけれど、そこに置かれるのはその言葉で、それは観客の「楽しみ」を想ってくれている言葉で、「悲しみ」を想ってくれている言葉で、だから、想いを馳せてくれたその言葉を受け取って、心にしまう。

 

 

 

 

私は暗いものを明るいものに転換して昇華するタイプではないので、とりあえずバケツに顔は突っ込むし、飽きたらバケツはぶん投げる。我ながらおっかない。バケツの水を虹に変える人も、バケツの水で湯を沸かす人もいるんだろう。十人十バケツ、それぞれで水をどうにかできたらいいんだと思う。私はしばらく顔面を浸したのち、遠くまでぶん投げる。

今日は自分のバケツの分にはもうだいぶ、顔を突っ込んだ。だからあとは、バケツはぶん投げて、信じて待つ。投げたバケツは良席にでもなって帰ってきなさい。

 

馬鹿みたいに素直に待って、楽しみにして、そうして素晴らしい時間に会わせてもらえた記憶もちゃんと思い出して、待つ。どうか健やかに。幕が上がって、劇場で会えますように。

 

 

オムライス

 

 

とある舞台を観た日の帰り、そういえば前に行った喫茶店が近くにあったはず、と寄り道をすることにした。オムライスの美味しい喫茶店だった。

その日は夕方から雨予報で、私は傘を持っていなかった。空を見ればもうすぐ雨が降りそうなことも分かる。うっすら雨の匂いもする。それでも「せっかく近くに来たのだし」と喫茶店に寄ることにした。方向音痴の自分が、勘でかつて一度だけ訪れた店に辿り着けるわけもないので、場所を調べてみると、どうやら一駅隣の駅だったらしかったので、歩かず電車に頼ることにした。観劇前に軽くお腹を満たしただけだったのでお腹が空いていたし、確実に辿り着けるのならその方がよい。

 

一駅分電車に乗り、改札をくぐり、階段を上ると、それなりに雨が降っていた。あれ、もう降るのか。予報よりもだいぶ早い。傘なしで歩けばそこそこには服が濡れるだろう雨。さて、どうしたものか。

こういう時にいつも思う。なんか色々と事が上手く運ばない日、どこかで止めるべきなのだろうか、それはどこなんだろうか、と。何かのタイミングが合わない時というのは、実は最初からとことんずれている時が多くて、後になって「最初の段階でやめておけばよかったなぁ」なんて思う。けれど、"最初の段階"なんてものはその最初の段階の時点ではなかなか気付けない。気付けないけれど、引っ掛かり程度の微かな違和感は置かれていたのだな、と後に気付く。ただ、大体の場合それは予感ほどの強さは持っておらず、「んー」ぐらいの気の迷いで終わってしまう。最後の着地点まで気付けないこともままある。

 

 

外に出ると横断歩道の先にローソンが見えた。つい先日も傘を家に忘れて、外でその場しのぎの傘を買ったばかりだったので、しばらくその場で悩んでいた。またビニール傘が家に増えてしまう。このまま歩いていくか?いや、場所もきちんと把握できていない店にこの雨で?気温も下がっているし風邪引くのでは?いっそ今日は諦めて戻るか?

…………などとしばらく考えて、結局ローソンに向かった。またビニール傘を増やすことにした。「せっかく近くに来たのだし」が勝った。そりゃあ折角一駅電車に乗ってここまで来たのだから、オムライスは食べて帰りたいじゃないか。けれど風邪を引くわけにもいかない。コンビニの傘に800円弱出すのは癪だったが、消去法でコンビニのワンタッチ傘が選ばれた。この傘でハーゲンダッツが2.5個買えると思うと惜しい。

ローソンでやたら大きい傘を調達し、しばらくGoogle mapに頼り道を歩くと、思いの外近くにその喫茶店はあった。それでも傘は結構びっしょりになっていたので、やはり傘は買っておいてよかったなと思った。営業時間は電車の中で調べてはいたけれど、人が動いている店内を見て店が開いていることに安堵し、ドアに手を伸ばした。

 

 

ドアが開いた瞬間、ウッと顔を顰めた。

……………煙草臭い。えっ煙草臭い。店のドアを開けてこんなに煙草臭いと思ったのはいつぶりだろう。数年前に改正健康増進法だかが施行されて、店内で煙草を吸える店はかなり減ったはず、というか基準が厳しいとかで、喫煙可の店を見つけるのが難しいぐらいにはなったはず。学生時代バイトしていた店も施行される少し前から全席禁煙に変わっていて、「喫煙席の常連さんなんかは大変だなぁ」と思った記憶があるし、その時に「へぇ」と思いながらそんな記事を読んだ気がする。除外された店なのか守っていない店なのか。いやそんなことはどうでも良いけど臭いな。

 

ぐるぐる考えながら入り口に立っていると「いらっしゃいませ〜」と店員さんが奥から出てきた。何ならすぐにでも立ち去りたいぐらいには煙草臭い。しかし、そういう時にも「せっかく来たのだし」がまず頭によぎる。せっかく近くまで来たのだし。せっかく電車に乗ってきたのだし。せっかくコンビニでわざわざ傘も買ったのだし。せっかく雨の中歩いてきたのだし。せっかく開いているのだし。せっかく、せっかく、せっかく。"せっかく"は増えれば増えるほど判断を鈍らせる。そう、せっかく来たし、せっかくならオムライスを食べて……などと考えていたら、店内を見渡した店員さんが「お煙草は吸われますか?」と訊いてきた。吸いません。全然吸わないです。「あ、吸わないです」と答えると

今ですと禁煙席が満席でして、喫煙席ならご案内できるんですが……」と返ってきた。

 

喫煙席、喫煙席……?いや入り口ですらほぼ喫煙席みたいな臭いしてるのに、更に濃そうな喫煙席に?長いこと煙に囲まれるほどの喫煙スペースに立ち寄ってなかったので、恐らく大分煙草の臭いへの耐性が薄れている。そんな状態で、美味しくオムライスを食べられるのか私は?…………無理だろ。オムライスで胃が満ちる前に煙草の臭いで肺が満ちるわ。

「あっ……じゃあ大丈夫です」

会釈して店を出た。店を出て最初に吸った外の空気は美味しかった。

 

そこでようやく「せっかく来たのだし」が消えた。せっかく来てもオムライスを煙と一緒には食べたくないし、恐らくここで過ごす時間はオムライスよりも煙草の記憶で埋まる。むしろ禁煙席が空いてなくてよかった気がする。あの感じだと何となく禁煙席ですら臭いような気がする。ずっと臭いと思いながら食べるオムライス、あまりに虚しすぎる。ここで、恐らく最後の「引き返す」の札を選んだのだろうな、と思った。夕方から雨が降る予報。駅を出たら強くなる雨。800円弱の傘。今日はやめておくかの選択肢を選べる何度かの機会を逃し、"せっかく"を増やしては引き返す足に錘をつけ、結局店の中まで来て最後、その札を選ぶ。大変あほらしい。あほらしいけれど、多分店に入っていたらもっと何とも言えない時間を過ごすことになっただろうと思う。その難は逃れたのだ。

きっとご縁がなかったのだ、と頭の中で言い聞かせつつ、ローソンで買った、人が二人は入りそうなでかい傘をさして、来た道を戻る。ここまで来るともはや悔いはないが、オムライスは食べたかった。電車に乗りながら、オムライス、傘を買いながら、オムライス、歩きながら、オムライス、オムライス…とずっとオムライスを食べるつもりでいたので、すっかりお腹はオムライスを求めている。頭もオムライスを食えと告げている。さて、どうしたものか。

 

 

 

 

結局、大きな駅に入ってから、チェーン店でオムライスを食べることにした。

割と色んなところにある店だろうけど、もう良いのだ、オムライスを食べられれば私の腹と頭は満足する。店内はいくつか席が空いているはずが、謎に待ちの列ができているのは若干気になったものの、最早そんなことはどうでもいい。待てばオムライスに辿り着ける。それで良かった。夕食時には早いのにな、とか考えながらオムライスを待つ列に並ぶ。

 

席についてド王道のケチャップオムライスを注文した。店内はやはりあまり混んでおらず、店員さんもすぐ気付いて注文を受けてくれた。そしてそこまで待たず、私の待ち侘びたケチャップオムライスが運ばれて来た。店員さんが歩いてくる。けれど、私の目には店員さんはもうほとんど見えていなかった。嗚呼、オムライス。オムライスがようやく私の元にやって来た。目の前にオムライスが置かれ、店員さんが伝票をさして去った後「お前を待っていた……………………」とオムライスに語りかけたくなった。しかしそれは不審者なので、無言でオムライスをしばらく見つめる程度にとどめた。ようやく会えたオムライス。お前に会うために俺は電車に乗り傘を買い雨の中を歩きお腹を空かせ歩んできたのだ…………………と思ったけれど実のところそれは「あの店のオムライス」であり、目の前のオムライスではない。けれど空腹状態でしばらく歩き、ようやく辿り着いたあの店に入れなかった時点でもう目的は分からなくなっている。とにかくオムライスが食べられれば何でも良い気がした。オムライスであれば何でも良い。ついでに頼んでみたロイヤルミルクティ(有料)とやらが紙カップに入ったおまけみたいなロイヤルミルクティだったことには目を瞑った。

そうしてようやく、一口オムライスを口に入れた瞬間、「オムライスだ……………………」と思った。紛れもなくオムライスだった。その店のオムライスは以前も食べたことがあった。「美味しい…………!」と感動するほどではなくとも、裏切らない美味しさは保証されたオムライス。オムライス。私はこれを求めていた。オムライス。いや、正確にはこれを求めていたわけではなかったけれど、オムライスを食べられたのだからよしとしよう。ありがとう、オムライス。無心でオムライスを食べていたらオムライスはあっという間に食べ終わった。

 

 

 

 

無事オムライスに辿り着いて満足した私は店を出て、駅へ向かった。満たされたお腹に幸せを感じながら、家へと帰る電車に乗った。

 

ガタンゴトン、ガタンゴトン。

電車に揺られながら考える。私はなぜあんなに取り憑かれたようにオムライスを求めていたのだろうか。お腹が満たされると、頭も冷静になってくる。さっきまで本当にオムライスを食べることしかほぼ脳になかったのだなと自覚する。そもそもはじめは、「せっかく近くにいるのだから、昔友人と行った店で食べて帰ろうか」ぐらいの軽い気持ちだったはずだ。それがいつの間に。"せっかく"を安易に積み重ねるのは存外怖いことなのかもしれない。まあ、オムライス程度ならまだかわいいものか。

自分の数時間を頭の中で辿りながら少し怖くなる。"せっかく"も疲労も空腹もおそろしいものである。何かを果たそうとするうち、いつの間にか目的がすり替わってしまっている物語の主人公なんかを見て、「あなたそれじゃ本末転倒じゃないの……」なんて思ったりするけれど、どの口が言ってるんだ。気付けばオムライス如きに固執してしまうのだから自分も大概である。「せっかくここまできたのだから……」という思考回路は、人を戻れなくさせるのだな、とオムライスに学ぶ。

そんなことを冗談半分真面目半分に考えていたら最寄駅までもあと一駅になっていた。外を見るとまだ雨が降っている。当分止まなそうだ。ぽつぽつではなく、傘が必要そうな雨。電車に乗って、コンビニに寄って、傘を買って、店まで歩いて、そしてまた駅まで戻って。その時間はすべてが無駄足だったなと思ったけれど、傘だけは無駄にはならなそうだ、と思った、ところで気付いた。

手元にあのやけに大きい傘がない。

 

どうやらあのやけに大きい傘は、オムライスの執念とともに店に置いていかれたらしかった。そういえば反対側の椅子に立て掛けたのに持ち帰った記憶はなかった。何かに執着すると、気付かぬうちに何かを失う。私はオムライスを得た代わりに、あのワンタッチ傘を失ったらしかった。

オムライスは恐ろしい。

 

 

綺麗事

 

 

綺麗な言葉を綺麗なまま話せる人がいる。

すごいなぁと思う。そういう人の綺麗な言葉は偽りなく本当に綺麗なのだ。

 

けれど、世の中には綺麗な言葉を悪用して意味を歪める人が沢山いるし、そうやって歪められてしまった言葉が山のようにある。真っ直ぐで綺麗で美しかったはずの言葉が、都合良く胡散臭く青臭くどこか気持ち悪い言葉に変わってしまう。

それがすごく嫌いだ。綺麗に見えていたはずの言葉が、濁って歪んだ加工物みたいに見えてしまう。そうやって悪用されて、そのまま使い古された言葉はもう今までのように愛すこともできない。もはや綺麗な言葉ではなくなってしまったそれらを、それでも真っ直ぐに愛する心は持てない。その強さがない。"綺麗な言葉をそのまま綺麗に使える人"にはなれない。だからこそ、「すごいなぁ」なのだ。それは歪められてしまった言葉に出会わなかったからなのか、気付かなかったからなのか、他でどう使われていたとしても、自分の言葉は自分の言葉として変わらず使える強さがあるからなのか。分からないけど、色々だろうけど、すごいなぁと思う。そういう人は、一度私が真っ直ぐに受け取れなくなってしまった言葉を、元の位置に戻してくれたりもするからすごい。

 

例えばだけど、高橋さんが昔、何かの雑誌の取材で嫌いな言葉を問われたときに「信頼」と答えていて、私は「あぁ、高橋さんは"信頼“という言葉を悪用した人間からその言葉を浴びたんだなぁ」と思った。私自身は特に信頼という言葉を嫌いだと思ったことはないけれど、誰かにとってはきれいで、清くて、真っ直ぐで、時に重みを持った言葉であったりするものが、自分にはひどく忌まわしいものに思えてしまうこと、そういう言葉というのはある人にはいくらでもあると思う。私にも少なからずある。

でも、だからと言って、きれいな言葉を全て斜めから見て嗤ってしまうのもそれはいやだ。だって、その言葉を本当に綺麗なまま使っている、濁りのない言葉を使う人もいるから。きれいな言葉アレルギーになるのはもったいないのだ。ただ、でも、同時に、やっぱりそういう私の隙間から、ちょっと心を許そうとしたその1ミリの隙間から、絶妙に気持ちの悪い言葉は入り込んできたりもするので、簡単ではないなぁ、といつも思う。綺麗な言葉を綺麗に使う美しい人と一見同じような言葉を使いながら、真似をしながら巧妙に何かを混入してくる厄介な人はいくらでもいるのだ。その濁りに本人が自覚的であるのかないのかは分からないけれど。

 

 

何かの言葉、特に少し長さのある文章を書く場合にはなるべく、その中で使う言葉を歪めないように、汚さないように、と思いながら書く。何か少し濁ったものを混ぜたことに気付いた瞬間、私は私がいやがることを自分にも、誰かにもしているのだな、と気付いてぴーーーーーと文字の塊を消す。自覚のある嘘(というよりは頭の中と文章にあるもののズレ、その誤差を自覚したまま出すこと)も、無自覚に混ぜた嘘(これは大体書いた後に自覚する)も、入り込んだ途端に何か、ぬめっとした不快感が湧く。純度100%の言葉を常に使おうだなんて思うのは無理があるけれど、そんなことを強いたら言葉を気軽に発することができなくなってしまうのでやらないけど、それでも、気付いた不純物をそのままにするのは、どうにも気持ち悪い。気持ち悪いし、なんか裏切っている感じがするのだ。何を、なのかは分からない。潔癖だなぁと思いつつも、ここは譲れないのでしょうがない。

 

多分私も、綺麗な言葉を綺麗なまま使いたいのだと思う。それを裏切ってしまったら、綺麗な言葉は綺麗なまま使えなくなってしまう気がする。そっぽを向かれてしまう気がする。だから、せめて私の中でまだ綺麗に使える、綺麗だと信じられる綺麗な言葉は、その透明な美しさを、ちゃんとそのままとっておきたいのだ。だから、別に綺麗な言葉でなくても、それがどんな言葉でも、整えて形作るため、それっぽく見せるため、都合良い理に収めるため、とか適当に変なものを混ぜないこと、騙そうとしないこと、それを頭のどこかに置きながら、不純物を見つけたら、「あ、おまえはどこからきたんだい」とつまみ出すようにする。いわゆる汚い言葉、マイナスな言葉とかそういうことではなく、それらも含めて、ナスだったものをズッキーニと語ることで妥協したり、エメラルドグリーンだったものを青だったと思い込むようにしたり、そういう気持ち悪さをどかしていく。全部は無理だけど、見つけたときにはお家に帰すようにする。綺麗な言葉を使いたいとき、綺麗なまま使えるようにするために。

 

"綺麗な言葉をそのまま綺麗に使える人"にはなれなかった、と書いたけれど、私の中にだって綺麗事はあるし、それを綺麗なままに言葉にしたいという気持ちもある。そして、する。「ハン、そんなの綺麗事じゃん」と誰かが嗤うのはどうでもよくて、私にとって、私の綺麗事が真に綺麗だ、と思えるかどうかがすべてで、私がその美しさに嘘をついていないことが大事なのだ。「綺麗事」をやたらと悪用する(何でもかんでもその言葉に収めようとする)人がいるけれど、純粋性や素直さを、幼稚で浅いものと片付けて笑うのは、それこそ簡単で楽でありきたりで、つまらないものだよな、と思う。

 

 

綺麗な世界を綺麗なままに見せてくれる物語も、綺麗な心を綺麗なままに映してくれる言葉を使う人も大好きだ。濁って汚く澱んだ紛い物がそこらじゅうに溢れる世界の中で、真っ直ぐに迷いなく放たれる美しさを、信じさせてくれるものが好きだ。その揺るぎなさというか、強さが好きだ。

とか言いつつも、相容れない(私には)真っ直ぐすぎる言葉、受け入れられない綺麗さも全然あるけれど、その中でも、「綺麗だ」と心を奪われる誰かや何かや物語に出逢えた瞬間、私は世界を少し信じられる。世界の一部でも綺麗だと、そこに価値はあるのだと思わせてくれる人も、言葉も、作品も、私は大好きだ。

 

だから、自分がそれを汚したくはないし、自分の中に残る綺麗なものも、そのまんま置いておきたいし、できたら磨いてつるつるにしておきたい。良いものも悪いものもあって良いけど、というかむしろ暗さがないと私はバランスが取れないので、いくらでもぐつぐつ煮込むけれど、言葉に出すとき、それ自体を歪めてしまわないように、思ってもないことを混ぜ込まないように。混ぜ込むことがあっても、それに気付けるように。その言葉に触れたとき、自分の中に、誰かの中に濁りを生まないように。「綺麗だ」まではいかずとも、摩擦を起こさないぐらいの純度は保っていたい。

私の手の届く範囲で、私の綺麗事を、綺麗と思えるままに守っておきたいな、と思う。

 

だから、これからも、綺麗なものを沢山見られますように、綺麗だと思える言葉と出会えますように。

 

 

おわり。

 

 

 

 

満月

 

夏の夜にベランダに出るのが好きだ。夏は好きじゃないけど夏の夜は緩やかで好きだ。

 

特に何もせず月を見上げたり夏の虫の音を聞いたりむわっと香る潮の匂いやべたつく風に夏を感じたり。そんなことを知覚として感じ取っていることすら別に意識していないぐらい、ぼーっとただそこにいる。外にある全てのものの中の一部として、単なる一固体としてそこに存在している時間が好きだ。明朝には満月らしいと聞いて、今日もまた外に出た。確かにほとんど満月だ。月がまんまる。

こうしている時間「〇〇 〇〇(本名)」としての自分の存在は消えているようで、ただ生物として、その空間でそこで息を吸って吐いている何かとして、そこにいられることに安堵する。人間であることから逃れられる時間は落ち着く。これまで生きてきたことで蓄積された自分の情報がべろんと剥がれて、それを部屋の明かりの中に捨ててきている感じがする。この暗さの中に自分は居ないのだなと少し自由な気持ちになる。あらゆる考え事も面倒ごとも、明かりの中に放り投げて置いてくる。私以外人のいない緩やかな暗闇はどこまでも放任的で、無干渉で、それでいてどこまでも懐が広い。そこまで考えて、私はいつの間にかそんなに窮屈な装備を付けていたんだっけか、と思う。

別に常に同じ自分でいなくちゃならないだなんて枷を自分にはめたつもりはないけれど、流石に前日はド陽気に「おっはようございまーす⭐︎」と挨拶した人間が翌日人見知りに変貌して「あっ…おはようございます……」みたいなことをしたら周囲の人を困惑させてしまうので、人間社会で生きる以上ある程度の一貫性は必要だろうとは思う。そして自分の方もある程度の一貫性は自然に身に付いてしまう。仕方のないことだけれど、それは窮屈でもある。名前がいくつもあったら楽なのにな、とハウルみたいなことを思う。多分何だかんだ死ぬまでずっと思っている気がする。

まぁ別にそれに限ったことじゃなく、なんだかんだ日常の中で錘となって自分に乗っかっているものの色々の話なんだと思う。それらをどっかり置いておける時間、「非日常」の時間は必要で、そこから更に私の場合は区分けがあって、人が存在する非日常と、存在しない非日常のどちらの時間も欲しているのだろうなと思う。

 

こんなことを考えていると、まあこれも所詮過去どこかの誰かしらがいくらでも考えた、もしくは今も考えていることなんだろうな、と思う。昔から思うけれど、最近観た舞台『2020(ニーゼロニーゼロ)』でそんな台詞があったから尚更だろう。でもそれが仮に過去誰かが辿った思考の断片であったとしても、世界全体からすればデジャヴだったとしても、別に既存の絵に塗り絵をしているわけではないのだ、ともまた思う。私は私で似たような絵を描いているだけ。別にそれはコピーではなく、ただ同じ植物が違うところに咲いていたぐらいのものだろうとも思う。世界に思考や感性の種みたいなものがあって、それがポツンポツンと散らばっているみたいなものだろう。誰かが考え尽くして答えが出ているとしても、私は今その過程にいるのだから、そんなことは関係ない。

 

月が綺麗だ。

空が晴れていて満月がくっきり見える。夏の夜はいくら月をぼんやり見ていても風邪を引くことはないから、心ゆくまで外にいられる。

朝昼夜でどれが一番好きかと問われて夜と即答できるほど昼間の明るさを欲さない人間ではないけれど、それでも夜は好きだ。どれだけ朝の頭の働く時間を有効活用しようと言われても、やっぱり夜の時間は朝には持てないのだから、朝型にはなれそうにない。夜の時間は朝の時間に替えられるものではない。そもそも自由な私の時間までそんな「効率」の枠に持っていかれたらたまったもんじゃない。効率的な自分を使うのは昼間だけで十分だ。夜はとことん非効率で怠惰で無計画で無意味な時間を過ごしたい。本来人間が活動するに適していない夜は、そういう無意味な時間を許容してくれる寛容さがある。何も言わないで放っておいてくれる夜が好きだ。

 

 

月の周りにうっすら雲が流れてきた。薄い雲なので、月を隠すことなく流れてゆく。束の間月の光に染められて、横に流れていく雲もまた綺麗だ。

 

 

普段こういう時間、自分一人が世界に浮かんでいる、と思えるような自由で現実離れした贅沢な時間に、文章を書こうとは思わないのだけれど、今日はこの時間を形として置いてみたくなった。ので、何となく書いている。

 

何かを書くことは、それが自分の中にあることの、自分への証明になったりする。それがあることを思い出せる。だから私は自分の文章を読み返すのが好きなのだと思う。"その自分"があること、あったことを自分で確認する作業。かならずしも全ての自分に自覚的である必要なんてないけれど、でも、覚えておきたい自分や時間というのもまたある。そういうときはその時間を何らかの形で保管しておく。それをまたいつかの自分が開けるかもしれないし、開けないかもしれないけど、とりあえず置いておく。

 

雲が増えてきた。