とるにたらない話

日常の記録や思考のあれこれ

綺麗事

 

 

綺麗な言葉を綺麗なまま話せる人がいる。

すごいなぁと思う。そういう人の綺麗な言葉は偽りなく本当に綺麗なのだ。

 

けれど、世の中には綺麗な言葉を悪用して意味を歪める人が沢山いるし、そうやって歪められてしまった言葉が山のようにある。真っ直ぐで綺麗で美しかったはずの言葉が、都合良く胡散臭く青臭くどこか気持ち悪い言葉に変わってしまう。

それがすごく嫌いだ。綺麗に見えていたはずの言葉が、濁って歪んだ加工物みたいに見えてしまう。そうやって悪用されて、そのまま使い古された言葉はもう今までのように愛すこともできない。もはや綺麗な言葉ではなくなってしまったそれらを、それでも真っ直ぐに愛する心は持てない。その強さがない。"綺麗な言葉をそのまま綺麗に使える人"にはなれない。だからこそ、「すごいなぁ」なのだ。それは歪められてしまった言葉に出会わなかったからなのか、気付かなかったからなのか、他でどう使われていたとしても、自分の言葉は自分の言葉として変わらず使える強さがあるからなのか。分からないけど、色々だろうけど、すごいなぁと思う。そういう人は、一度私が真っ直ぐに受け取れなくなってしまった言葉を、元の位置に戻してくれたりもするからすごい。

 

例えばだけど、高橋さんが昔、何かの雑誌の取材で嫌いな言葉を問われたときに「信頼」と答えていて、私は「あぁ、高橋さんは"信頼“という言葉を悪用した人間からその言葉を浴びたんだなぁ」と思った。私自身は特に信頼という言葉を嫌いだと思ったことはないけれど、誰かにとってはきれいで、清くて、真っ直ぐで、時に重みを持った言葉であったりするものが、自分にはひどく忌まわしいものに思えてしまうこと、そういう言葉というのはある人にはいくらでもあると思う。私にも少なからずある。

でも、だからと言って、きれいな言葉を全て斜めから見て嗤ってしまうのもそれはいやだ。だって、その言葉を本当に綺麗なまま使っている、濁りのない言葉を使う人もいるから。きれいな言葉アレルギーになるのはもったいないのだ。ただ、でも、同時に、やっぱりそういう私の隙間から、ちょっと心を許そうとしたその1ミリの隙間から、絶妙に気持ちの悪い言葉は入り込んできたりもするので、簡単ではないなぁ、といつも思う。綺麗な言葉を綺麗に使う美しい人と一見同じような言葉を使いながら、真似をしながら巧妙に何かを混入してくる厄介な人はいくらでもいるのだ。その濁りに本人が自覚的であるのかないのかは分からないけれど。

 

 

何かの言葉、特に少し長さのある文章を書く場合にはなるべく、その中で使う言葉を歪めないように、汚さないように、と思いながら書く。何か少し濁ったものを混ぜたことに気付いた瞬間、私は私がいやがることを自分にも、誰かにもしているのだな、と気付いてぴーーーーーと文字の塊を消す。自覚のある嘘(というよりは頭の中と文章にあるもののズレ、その誤差を自覚したまま出すこと)も、無自覚に混ぜた嘘(これは大体書いた後に自覚する)も、入り込んだ途端に何か、ぬめっとした不快感が湧く。純度100%の言葉を常に使おうだなんて思うのは無理があるけれど、そんなことを強いたら言葉を気軽に発することができなくなってしまうのでやらないけど、それでも、気付いた不純物をそのままにするのは、どうにも気持ち悪い。気持ち悪いし、なんか裏切っている感じがするのだ。何を、なのかは分からない。潔癖だなぁと思いつつも、ここは譲れないのでしょうがない。

 

多分私も、綺麗な言葉を綺麗なまま使いたいのだと思う。それを裏切ってしまったら、綺麗な言葉は綺麗なまま使えなくなってしまう気がする。そっぽを向かれてしまう気がする。だから、せめて私の中でまだ綺麗に使える、綺麗だと信じられる綺麗な言葉は、その透明な美しさを、ちゃんとそのままとっておきたいのだ。だから、別に綺麗な言葉でなくても、それがどんな言葉でも、整えて形作るため、それっぽく見せるため、都合良い理に収めるため、とか適当に変なものを混ぜないこと、騙そうとしないこと、それを頭のどこかに置きながら、不純物を見つけたら、「あ、おまえはどこからきたんだい」とつまみ出すようにする。いわゆる汚い言葉、マイナスな言葉とかそういうことではなく、それらも含めて、ナスだったものをズッキーニと語ることで妥協したり、エメラルドグリーンだったものを青だったと思い込むようにしたり、そういう気持ち悪さをどかしていく。全部は無理だけど、見つけたときにはお家に帰すようにする。綺麗な言葉を使いたいとき、綺麗なまま使えるようにするために。

 

"綺麗な言葉をそのまま綺麗に使える人"にはなれなかった、と書いたけれど、私の中にだって綺麗事はあるし、それを綺麗なままに言葉にしたいという気持ちもある。そして、する。「ハン、そんなの綺麗事じゃん」と誰かが嗤うのはどうでもよくて、私にとって、私の綺麗事が真に綺麗だ、と思えるかどうかがすべてで、私がその美しさに嘘をついていないことが大事なのだ。「綺麗事」をやたらと悪用する(何でもかんでもその言葉に収めようとする)人がいるけれど、純粋性や素直さを、幼稚で浅いものと片付けて笑うのは、それこそ簡単で楽でありきたりで、つまらないものだよな、と思う。

 

 

綺麗な世界を綺麗なままに見せてくれる物語も、綺麗な心を綺麗なままに映してくれる言葉を使う人も大好きだ。濁って汚く澱んだ紛い物がそこらじゅうに溢れる世界の中で、真っ直ぐに迷いなく放たれる美しさを、信じさせてくれるものが好きだ。その揺るぎなさというか、強さが好きだ。

とか言いつつも、相容れない(私には)真っ直ぐすぎる言葉、受け入れられない綺麗さも全然あるけれど、その中でも、「綺麗だ」と心を奪われる誰かや何かや物語に出逢えた瞬間、私は世界を少し信じられる。世界の一部でも綺麗だと、そこに価値はあるのだと思わせてくれる人も、言葉も、作品も、私は大好きだ。

 

だから、自分がそれを汚したくはないし、自分の中に残る綺麗なものも、そのまんま置いておきたいし、できたら磨いてつるつるにしておきたい。良いものも悪いものもあって良いけど、というかむしろ暗さがないと私はバランスが取れないので、いくらでもぐつぐつ煮込むけれど、言葉に出すとき、それ自体を歪めてしまわないように、思ってもないことを混ぜ込まないように。混ぜ込むことがあっても、それに気付けるように。その言葉に触れたとき、自分の中に、誰かの中に濁りを生まないように。「綺麗だ」まではいかずとも、摩擦を起こさないぐらいの純度は保っていたい。

私の手の届く範囲で、私の綺麗事を、綺麗と思えるままに守っておきたいな、と思う。

 

だから、これからも、綺麗なものを沢山見られますように、綺麗だと思える言葉と出会えますように。

 

 

おわり。