とるにたらない話

日常の記録や思考のあれこれ

バケツは投げて待て

 

悲しいという感情を、よく感じるようになったな、と思う。舞台が中止になるたびに「悲しい」と思うその感情に、相変わらず慣れないなという話。そんなもの慣れたくもないけど。喜怒哀楽のなかで一番苦手だ、哀。悲しみ。

自分の行く舞台が中止になって、悲しい、悲しい、あー、悲しい、と毎回、ひたすら思う。希望と、楽しみと、期待と、そこで感じるはずだった喜びと、楽しさと、時には怒りや悲しみと、観終わったあとの感動と、感謝と、そこに辿り着くためによいしょよいしょと乗り越えてきた日常の色んなものを思って、悲しくなる。何だったんだろう、と思う。

そして、ああ、だめだ、それに呑まれるな、と思う。

 


私にとって楽しみにする、ということは、「中止になるかもしれないな」をあまり頭に浮かべないようにすることでもあって、まあそりゃあ完全によぎらないようにするのは無理だけど、それでも、最初から少し心のバリアを張っておく、みたいなことを、どこか子どもみたいに避けてしまう。楽しみに待っててくださいね、と言われているのだから、そうやって信じて作ってくれているのだから、私はちゃんと心から信じて楽しみに待とう、と子どもみたいに、どこか意地を張りながら、いろんな可能性を分かっていながらもそいつらをポイと放り投げてしまう。そんな懸念を持っててたまるか、と。推しが出る舞台は特にそうかもしれない。推しが楽しみに待っててと言うのだから、劇場で待ってると言うのだから。これはもちろん、そんなことを言うなという話ではなくて、むしろ信じさせてくれる言葉をくれることに救われる人間で、未来なんて常に不確実で、分からなくて、それでも信じたいと思わせてくれる言葉は希望だから。
だから毎回、馬鹿みたいに素直に楽しみにして、素直に悲しくなってしまう。突然後ろから槍に貫かれて、その槍は私の中にずっと楽しみに埋めていたチケットを刺して持って行って、私はその槍の先端に捕まったチケットを見て、あぁ、また持って行かれた、と思う。なんなんだ、おまえは。簡単に持っていきやがって。誰なんだ。槍め。

 

 

 

「私の悲しみは私のもの、誰かの悲しみは誰かのもの」
このご時世になってから、よく自分に言い聞かせている言葉のうちのひとつ。こういう時、繰り返し脳内で再生する。

作品を一生懸命作ってきたカンパニーの人たちは、私以上に作品をこちらに届けることを信じて、幕が上がることを願って、万全の対策をして、作品を磨き続けて、それでも、幕が上がらないことがある。多分私よりずっと悲しくて、大変で、無念で、悔しくて、辛いことなんだろうと思う。やれることをやる、とこちらには力強く伝えてくれるけれど、それでもそこまでの時間を思うと辛い。どれだけ作品が素晴らしくても、どれだけ才能ある役者さんやスタッフさん達が集まって懸命に頑張っていても、その作品の幕が無事に開き続けるかどうかは運でしかない。そのわけのわからなさに、毎回、本当にわけがわからない、と思う。

ただ、自分が悲しい時に他の人の悲しみまで想像してしまうと、私は簡単にその足し算された悲しみの負荷に負けてしまうから、その度にその言葉を繰り返す。私の悲しみは私のもので、まずはそれが大事で、相対化する必要もなくて、私にとっての悲しみは、私にとって悲しい、というだけでいいのだ、と。そして、私が悲しい時、他の人の悲しみまで範囲を広げるのはとても危険なことだと。自分の悲しみの分のバケツで手一杯な時に、他の人の悲しみのバケツの水まで注いだら、溺れて戻ってこれなくなってしまう。だから私は私の分の悲しみを持っていればいい。そもそも、誰かの悲しみを大事にするためには、自分の悲しみを大事にしないことには始まらないと思うから。自分のそれを蔑ろにしながら誰かのそれを尊重できるほど、私は人間ができていない。だからまずは自分の悲しみをちゃんと悲しむこと、と毎回言い聞かせる。

 

 

役者さん達に、楽しみにしてくださっていたのにごめんなさい、と言われるたびに、謝らなくて良いのに、と思う。当たり前に誰のせいでもない。でも確かに、自分がものすごく何かを頑張って作っていて、その先にそれを楽しみに待ってくれている人がいることを知っていて、でもそれが届けられなくて、その人が悲しむとわかっていたら、それは自分のせいではなくても謝りたくなってしまうな、とも思う。それは、悲しい、あなたに届けたかった、と思う気持ちなのだろうとも。だから、分かった、と思う。「ごめんなさい」を受け取る。それはきっと「見て欲しかった」だと思うから、私も「うん、見たかったよ」と思って、受け取る。本当は"その日"に受け取れたはずのものは受け取れなかったかわりに、その時にくれた、その言葉を受け取る。必要な謝罪ではないし、それを求めてはいないけれど、そこに置かれるのはその言葉で、それは観客の「楽しみ」を想ってくれている言葉で、「悲しみ」を想ってくれている言葉で、だから、想いを馳せてくれたその言葉を受け取って、心にしまう。

 

 

 

 

私は暗いものを明るいものに転換して昇華するタイプではないので、とりあえずバケツに顔は突っ込むし、飽きたらバケツはぶん投げる。我ながらおっかない。バケツの水を虹に変える人も、バケツの水で湯を沸かす人もいるんだろう。十人十バケツ、それぞれで水をどうにかできたらいいんだと思う。私はしばらく顔面を浸したのち、遠くまでぶん投げる。

今日は自分のバケツの分にはもうだいぶ、顔を突っ込んだ。だからあとは、バケツはぶん投げて、信じて待つ。投げたバケツは良席にでもなって帰ってきなさい。

 

馬鹿みたいに素直に待って、楽しみにして、そうして素晴らしい時間に会わせてもらえた記憶もちゃんと思い出して、待つ。どうか健やかに。幕が上がって、劇場で会えますように。