とるにたらない話

日常の記録や思考のあれこれ

ケーキの自由

 

 

ショートスリーパーになりたい。少ししか寝なくても何とかなりたい。鎮痛剤と無縁の健康優良児になりたい。甘党になりたい。アフタヌーンティーを楽しみたい。食いしん坊になりたい。いっぱい食べる君が好きの「君」みたいな人になりたい。朝から軽やかな気持ちになりたい。毎朝夜の気分がリセットされる人間になりたい。朝晴れやかな気持ちで1日を迎えてみたい。穏やかな人になりたい。感情の波が緩やかで、容量の大きい人になりたい。好奇心旺盛な人になりたい。色んなことに目を輝かせる人になりたい。

 

なれない、なれない、なれない、を日々淡々と繰り返している。

なれているものはあるし、持ってあるものもある。きっと十分にある。それでも、ないものねだりだと分かっていても、欲しいものは欲しい、と駄々を捏ねたくなる時もある。他者と比べなければそんな欲も願望も生まれないのかもしれないけれど、他者のいない世界など住むことができないのだから、そんなことを言われてもどうしようもない。人は人、自分は自分、が自分のなかで成り立つものもあるし、成り立たないものもある。

ただ、こんなことも、考え飽きる日が来るのかもしれない、と書きながら思う。オードリー若林氏のエッセイで、悩むのにも体力が要るから、歳を取るとあんまり悩み過ぎなくなってくる、悩み続ける体力がなくなるからかもしれない、みたいなことが書いてあった(とは言え若林氏だって多分悩みの種類と質と量が変わっただけで今も色々ずっと考え続けてるんだろうなとLIGHTHOUSEを見て思ったけど)。

あと10年したら、20年したら、50年したら今考えている諸々も、その辺に落ちている埃ぐらいのどうでもよさになるだろうか。まあ、今の私には埃にはならないので、考えたいだけ考えるのだけれど。

 

誰かが欲しいものを私は持っていて、自分の"なりたい"は誰かにとっては取るに足らないことで、自分が十分恵まれていることもまた、理解している。だからやたらと言わないようにもする。言うところを、言う人を選ぶ。

誰かにとっての切実な生きづらさや、そこから来る欲求は、他人からすれば贅沢な悩みでないものねだりの欲深い願望で、「そんなのが悩みとかふざけてんのか」みたいなことにも、全然なる。人の悩みは簡単に相対化されるし、価値付けされてしまう。まあそりゃあそうだ、と思う。マズローの欲求の第一・第二段階(生理的欲求・安全欲求)を満たせていない人からすれば、第五段階(自己実現欲求)の話をしている人なんて見たくもないだろう。「なんかさぞかし幸せそうなお悩みで良いですねぇ…」となる。そりゃあそうだ。

だから、こんなことを考えていると (そんなに持っているのに、まだ欲しいのか) とまず頭の中で鳴る。多分、他人に思わせてしまう前に、頭の中でそれを鳴らす癖が過度についている。それは多分、自分が"持っている"側にいる自覚が強いからだ。

 

確かに、持っている。持っているものが沢山ある。恵まれている部分の自覚は持たなくてはならない。ただ当たり前だけれど、持てないものも多くある。ただ、それは全体的に他人から見たら取るに足らないものだろうなと思う。もしくは、理解しづらいもの。

他人からしたら他人の悩みは米粒程度に見えたりするのは「そりゃあそう」なんだけど、それでも、誰かからすればものすんごいどうでもいい悩みや欲求や願望だとしても、当人にとっては重要であるということは山ほどあって、かといって別にそれを他人が分かってあげる必要もなくて、必ずしも社会が拾い上げる必要もなくて、それでも別に、それを本人が軽く扱わなくちゃいけないこともないと、同時に全部そんなことを思う。社会的に見て、相対化された時にそれがどんなちっぽけなものでも、取り扱う必要を感じられないものでも、本人はそれを大事(おおごと)として扱う権利はある。けれど、同時にそれを、別に必ずしも他人が尊重してあげる必要もない、と思う。けれど、本人はいくらだって、それがミジンコサイズの取るに足らなさであっても、それをだいじにしていい、とも思う。繰り返し繰り返し同じようなことを言っているけど、この辺すごく難しいなとよく考えるから、何回でも繰り返してしまう。

だから、私は自分の"なりたい"をせめて受け止めてやろう、と度々言い聞かせる。くだらなくても贅沢な考えごとでも、その"なりたい"をゆるしてやろう、と思う。どの"なりたい"もばらばらだ。その切実さも、なりたさも、なれなさも、ばらばら。色んななりたさとなれなさを取り出して眺めては、また鞄の奥の方にしまう。どこまでもついてくるままならなさは、ずっと出して見ていたら疲れてしまうし、どうにもならないから、とりあえずは奥にしまっておくのがちょうどいい。

 

なろうと思って頑張ればなれる類のものと、そうでないものがある。そして、どうもこの社会は前者に沢山のものを振り分けたがる。やればできる、頑張ればなれる、そういうのが好きだ。代入すれば誰でもできる方程式みたいに適当な方法をいろんな人が無責任に色んなところに置いていく。そういう方程式を得意げに掲げながら「すべては自分次第」とか言う人にいつもいつも「うるさいなぁ」と思う。前者に勝手に振り分けるのは自分の分だけにしてくれ、と思う。たしかに何でも後者に振り分けていたらつまらないし、自分の手元にあるものから変えられるものも多くある。けれど、どうしたってなれないものも、できないことも、手に入らないものも、普通にある。「自己責任論」なんて分かりやすい悪そうな名前がついてもなお、この社会は、この国は、何でも前者に振り分けるのが未だに大好きだ。

 

ただ、別にそのなれなさに浸って、可哀想になりたいわけではないのだ。なんか、"弱さ"の話をすることって難しいなと度々思って、弱さの話をすると、なんだか「私はこういう部分が弱いので、ちょっとしんどいんです…」みたいな、弱さを前面に出して(気を遣って欲しい)、(分かって欲しい)みたいな、空気感が言葉から出てしまいがちで、そのつもりはなくてもそう滲んで見えてしまいそうで、難しいなと思う。その位置に行きたいわけではない。でも別に、そういう語りをまとめて下げたいわけでも決してない。しんどいことをしんどいと言う場もあるべきで、おかしいことをおかしいと言う場もあるべきで、その気持ちにじっくり浸ることも、拾い上げるべきものとして問題提起することも大事だ。だから、その辺りの話とこの話は一緒にしてはいけない。近い話をしているから明確には分けられないけど、それでも、これはただの私の話で、他の切実な誰かの弱さの話を「それ弱さやしんどさに酔っているだけでしょ」とか勝手に片付ける話に聞こえてはならないので、ここは丁寧に書いておきたい。

 

ただ、私のこの話に限っての場合、「なりたいよね」「でもなれねぇんだなあ」と言いたいだけなのだ。他者からすればくだらなく取るに足らないことが、自分にとってはわりと切実だったり、けれどその切実さのサイズ感は他者には分からないものだったり、相対的に小さいものだったり。もしくは別に全然真剣でも切実な話でもないけれど、なんかずっとある"なれなさ"とか、それを持っている人への羨望とか。でも、切実さを滲ませた瞬間、それを軽く取り扱ってもらうこともできなくなるだろうし、それもそれで面倒だから他人の前では適当に扱うのがベターとか。そういう話。そういう話を、フラットな位置でしたい。そういうことってなんか、あるよね、みたいな位置。

そんなわけでここからは、少し自分語りをする。今回は、食べ物の話。

 

 

小さい頃、祖母の家で甘い物を食べるのが苦手だった。いや、正直に言えばそもそも、祖母の家で(というか父方の実家で)ものを食べる行為自体がすべて苦手だった。

甘いものは好きだ。けれど、甘いものが苦手だ。矛盾しているようだけど私の中ではそれは成立して、甘い味は好きだけど、食べたいと思うけど、一定量を超えると途端に気持ちが悪くなる。胃というより、むしろ肺ぐらいの位置が気持ち悪くなる。身体が甘い物をこれ以上体内に入れることを拒否している、と思う。だからいつも、外で甘い物を頼む時はものすごく慎重に吟味する。甘さのパーセンテージと、量のバランスを見て頼む。甘さパーセンテージ90%で量がレベル5中の5のスイーツは私にとっては雲の上の存在なので、甘さパーセンテージ70の量レベル1.5ぐらいがベスト。そういう計算を常に頭の中で繰り広げてメニューと睨めっこする。

そんな感じで、今も私の甘味のキャパシティは狭いけれど、小さい頃は今よりもずっと狭かった。そもそも生クリーム自体が苦手だったし、生クリームがもりもりに盛られているショートケーキを見るだけで、「クリームがいっぱいだ……」と後退りたくなっていた。でも、チョコレートケーキは好きだった。我ながら訳がわからない。でも、好きなチョコレートケーキすら半分でちょうど良い。「ケーキ」は私にとっては「半分までは(正確には3口目ぐらいまでは)美味しいけれど、後半は気持ち悪さと格闘しながら食べるフードファイト系の食べ物」だった。

 

子どもの頃、祖父の誕生日にも、祖母の誕生日にも、お誕生日祝いでケーキを買って祖父母宅の家に向かった。ケーキを買ってお祝いをする。めでたい、めでたい日。めでたいけれど、いつもどこかで憂鬱だった。その頃は憂鬱だなんて言葉も、自分の中に埋もれた重さに「憂鬱」という名前がつけられることも知らなかったから、ただなんとなく楽しみになれない感覚だけがあった。そしてそれがたぶんあんまりよくないことなのだ、という後ろめたさも。

祖父母の家に行く。花束を渡す。「お誕生日おめでとう」と祝って、みんなでケーキを食べる。ケーキは美味しかった。途中まで。フードファイトを試みるも、どうしたってやっぱり気持ち悪いものは気持ち悪いので、私は飽きてくると「ケーキ、あきちゃった……」と父や母に残りのケーキを渡していた。そんな私に祖母はいつも「贅沢なことを……」と言った。「昔は甘いものは滅多に食べられなくてたまのご褒美だった」「ケーキは贅沢な食べ物で…」そう続いていく言葉も、遠回しに投げられる自分への否定も、私は聞こえないふりをした。

 

 

今でもそりゃあそうだろうな、と思う。甘くて美味しい贅沢品のケーキを、途中で残す私は"贅沢"だ。

当たり前だけれど、祖母は私と生きてきた時代が違う。祖母にとって「ケーキ」は「贅沢な食べ物」だ。食べるものに困ったこともない、甘いものもお店に行けばいくらでも売っている時代に生まれた私と、生きるのに必要な食べる物ですら足りず、少なく、ましてや甘いものなんてものすごく希少であった時代を生きてきた祖母。生きて育った時代が、見てきた世界が違う。その点において私は恵まれた時代の人間で、いつも「なんもいえないな」と思っていた。言えるわけがない。ケーキは甘ったるくて飽きるから途中までしか食べたくない。あまりに弱すぎる。勝ち目がない。あまりに自己都合で、あまりにわがままで、あまりにも「本人が頑張ればどうにかなる」感がありすぎる。そういうのは、弱いのだ。圧倒的正しさの前で、圧倒的に倫理的に敗北している感覚。どう考えても何も言えないし、私がわるいのだろう、と思っていた。

 

ただ、同時にすごく、ものすごく、なんかいやだな、とも思っていた。だからこそ多分、こうやって今も私の記憶に残っている。

それは今の私の頭の中にある言葉を当てはめれば「理不尽だ」という感覚だったと思う。どうしようもできないものを、どうしようもできない理屈で責める行為は、すごく、狡い。私が甘い物を沢山食べると気持ちが悪くなる身体的性質は私にはどうしようもできないことで、それは私の腕を切れば血が出るのと同じぐらい、私には自然で、不変なものだ。けれど「甘い物を飽きたなどと言うのは贅沢だ」と、「食べるものに困ってきた、甘いものが贅沢品だった時代の人」が言うのは、どう考えても正しさを持ってしまうからこそ、形式的にはとても、狡い。しかもそれを「祖母」にあたる人が、反論能力を持たない「子ども」、しかも「孫」に言うという行為は、今の頭で考えれば、それはやっぱり狡いのだ。

けれど幼い私にはそんな狡さは分からないし、ただただ「わがままで贅沢で苦労知らずな子」の烙印を押されるがまま、「まあわたしがわるいんだろうな」と思うしかない。正しさを1ミリも味方につけられない息苦しさは、抜け方が分からない。小さい箱にぎゅうぎゅうに正しさと一緒に詰められるような、周りをどかしようもないものに固められる窮屈さ。それに対抗できる武器を持たない限りは詰められておくしかない。「あーあ、はやく、かえりたいな」と思うしかなかった。

 

そういう感覚は、言語化されずに身体の中に溜まっていくのだろうな、と思う。だからこそ私は、言葉という味方をつけた今、こんなことを書いている。正しさと一緒に箱詰めにされる感覚は閉塞感がすごくて、私は祖母といる時いつも、いつ正しさの矢が飛んでくるか、それがどんな方向から、どんな理由で飛んでくるのか、とずっと気を張っていた。偏食で少食だった私は、食事において正しさを持てないことが多かったから、食事の時間はいつもぴん、と糸を張っているような警戒状態だった。今日の食事に何が出てくるか、何を言われるか、それを防ぐために何を試みるか。食べられないものを渡すために、父や母の隣に座るのは私の中の暗黙の鉄則だった。それでも防げない時は口も胃も私の身体の何もかもが欲してないものを食べるという選択肢を取るしかなかったし、その時間が苦手だったし、苦痛だったし、早く終わりにしたかった。早く終わらせて、習い事のピアノの話とか、美術で作って作品展に選ばれた作品のこととか、そういう祖母が喜びそうな側面の私を出せる時間に持っていきたかった。これなら好きでしょ、この私なら好きでしょ、ほら、こうしたらいい、ここを見せたらいい、と無意識に「祖母の好きな私」に誘導していた。祖母の正しさから逃げたかった。書きながら、祖母とそれなりに距離のある育ち方をしていて良かったな、と思う。

 

 

こういう記憶が、どうしたって頭の中に、身体の中に埋まっている。ので、たとえばスイーツビュッフェで盛り盛りに2皿分ぐらいスイーツを乗せてくる人も、「苦手なものはある?」と問われて「ないです!何でも美味しく食べられます!」と笑顔で答えられる人も、ご飯をためらわず大盛りにできる人も、どんな店でも躊躇なく入れる人も、めちゃくちゃ眩しく感じてしまう。シンプルに羨ましい。今でも私は「美味しくものを食べる」こと全般に苦手意識があるから、初めてのお店に入る時に何の抵抗も緊張も不安も感じないこと、メニューを見た時にご飯を選ぶ行為が消去法にならないこと、1000円ぐらいのパフェを最後まで美味しく食べられること、全部羨ましくて、健やかで、眩しい。

眩しく思うと同時に、自分がそうあれないことなんて、とうに諦めはついているはずなのに、いまだに少し何かが擦り減る感覚がある。「いいな、私もそうあれたらよかったのにな」と内側の柔い私が純粋に反応する。中学の修学旅行の時、食べたい気持ちのまんま大きい抹茶パフェを頼んで死ぬほど気持ち悪くなりながら完食したこと、二度とでかいパフェは頼まないぞと決めたこと、子どもの頃の法事の時、食べれない和食だらけのご飯を前に困っていたら親戚のおばさんに「お育ちが良いのねぇ」と皮肉を言われたこと、何が出てくるか分からないコース料理が恐ろしいこと、そのせいで結婚式に呼ばれてもどこか憂鬱なこと、推しのディナーショーですら憂鬱と楽しみを天秤にかけて後者を勝たせられる自信がなくて行けないこと、アフタヌーンティーに誘われると嬉しいけどつい微妙な反応を返してしまうこと、友人にご飯に行くたび楽しみと色んな面倒さ(あらゆる気を使うことと使わせること、使わせないようにまた気を使うこと)をつい天秤にかけてしまうこと。色んなものが私の中に蓄積されていて、それらを全部軽く受け流せたらよかったのに、軽く扱えたら良かったのに、そうできてこなかった自分が面倒で、弱くて、いやになる。でもそんなことをいちいち滲ませていたら気を使わせるので、なんてことのない感じに演出をする。別に自分の中で軽くなんて消化できてないくせに、できていることにする。みんなそんなものかもしれないけど、なんかもうそういうの一切合切ぽいってしたいのに、食は生活に結びつくから、1日に何度も訪れることを生きている間は繰り返していくから、永遠にぽいっとはできない。だから、ずっと私はこのままならさを、面倒臭さを持て余している。

それをわかって欲しいとも思わないし、分かってもらえるとも思わないし、そういう諸々を「面倒くさいね」「わがままだね」「そんな気にしなくて良いんじゃない?」の一言で片付けられる人もいることも知っているから、わざわざ開示しようとも思えない。特にそのトピックについて考えたことがない大半の人にとって大概の他人の特殊な事情は"面倒"なものだと知っている。それを個人の責任の範囲に収めること、個人が「努力次第でどうにかできるけどやっていない」ことに収めて「わがまま」の枠に入れ込むこと、笑いに流す方が楽なことも知っている。いちいち自分の普通を疑うのは負担が大きいし、そこから社会の前提を問い直すなんてこと、大半の人間はやりたがらない。私だって知らず知らずのうちに、違うトピックではそれをきっと他人にやっているのだ。

だから、軽いノリで「そうなんだよね〜あはは」で返すのも別にいいんだけど、そればっかりやっていると、じわじわと内側で何かが腐りそうになる。この世界で一番私の"面倒さ"を"面倒“だと思っているのは私だし、軽く扱おうと試みてきたのも私だし、その何が分かるんだろう、と思うけど、何も分からないだろうし、分からなくて当たり前なことも知っている。けれど、何度も既視感のある感情とか他人の反応とかに心の中で薄ら笑いを浮かべながら付き合うことをずっとやるのもやっぱり慣れずに疲れるのだ。

かと言って他人に理解してもらう労力を割かせるのも悪いし、私とて説明をして徒労に終わる虚無感を頻繁に味わいたくもない。だから、大体は適当に、いい感じにする。大半の人には自分に負荷がかからない程度に説明して、相手に気を使わせない程度にゆるっと平気そうな感じに伝えて、調整をする。

 

社会の標準規格に当てはまらない性質を一つ以上持っている人間は多分、そういう小さな諦めを常日頃持ち歩いていて、別にそれに毎日何かを思うわけでもなくて、ただ淡々と諦めているし、ずっと前の段階で望みは絶たれているので、ベースがぼんやりとしたあたりまえの絶望にあるんじゃないかと思う。字面として「絶望」とか書くとパンチが強いけれど、単純に「こうでなくありたかった」とか「こうあっても"普通に"何も言われず生きられる社会が良かった」とか、そういう"望み"がどうにかなる可能性が"絶たれて"いて、すでに過去形の形をしているから、状態としてそう("絶望"という状態に)なる、という意味での絶望。目の前が真っ暗とか真っ青とかそんな派手なものじゃなくて、自分の心のどこかに、どかせることのない灰色の何かが横たわっているとか、ずしんと沈んでいるみたいなそういうもの。別に毎日見に行って認識するわけでもないけど、ただ当たり前にそこにある。そういうものが、いくつかごろごろある。ある人には沢山あるだろうし、ない人は多分何の話をしているかすら分からないんだろうなと思う。

 

 

「なりたい」はそういう、よく分からないけどいつからか存在してしまっている何かから、湧いて出るんだと思う。自分の奥に埋めているものからむくりと時々顔を出す。欲求と最初の方で書いたけれど、叶うことがないと思っている(染み付いている)ものを欲求と呼べるのかわからない。対象に対する羨望とか、淡い憧れとか、そういう、欲とか願望とか期待とか以前のものでしかないから、そう呼ぶのもなんか違う気がする。いや、その「なりたい」にはもしかしたら叶うかもしれないものも含まれるかもしれないし、たとえば今回出した食の話だって、身体的性質とはいえある日突然舌の性能が変わる可能性だって、ないとは言えない。ただ、問題はたぶん、実際実現可能性がどのぐらいあるかとかいう話ではなく、私自身が多分、心の底から「なれないだろうね」と思ってしまっていることなんだろうな、と思う。なれない、なれない、なれない、を積み重ねて染み付きすぎて、この種の「なりたい」はもうほぼほぼイコールで「なれない」なのだ。そう変換されてしまう。でも、完全にイコールにはなってくれないから、完全には諦めきれずに、懲りずに、つい「なりたい」と思ってしまう。自分という生命体のままならなさを受け入れるのではなく、そうでない世界を羨んでは望んでしまう。厄介だ。

 

 

けれど、なんかそういうの丸ごと「まぁ、なんかさ、そうなんだよね」と思えたらいいな、と最近は思う。いちいち毎日めくって、なれなさなんて見てたら疲れてしまうけど、ふと「なりたい」とか「なれない」とか、そういうものが顔を出した時、自分ぐらいは「なりたいよねえ」「でもなれねぇんだよなあ」「なりたかったねえ」と、思ってあげられるといいなと思う。なりたいし、なれないし、なりたかったし、なれなかったけど、でも「そうなんだよなあ」と思えたらいいなと思う。否定でも肯定でもなく、ただそこにあるなりたさとなれなさを、許容できたらいい。

いつか全てがどうでも良くなるかもしれないし、いつかカラッと諦めがついて完全に笑いごとに収められるかもしれないし、いつかスーパー最強自己受容マンになって「や〜そんな色んなところがあるけど総合的に私って最高に可愛い生き物だしこの際何でも良くない?愛おしいじゃん?」とか思えるかもしれないけど、今のところはまだ決着がつかなさそうなので、気長に付き合っていけたらいいなと思う。私は私のことが面倒だし、自分の社会の標準規格にはまらない部分が面倒くさいし、擬態して済めばいいけど擬態すらできない領域だと本当に面倒になるし、そのたび世界と自分のどちらともが憎たらしくなるし、とにかく「自分という生命体を生きるの、めんどくさ〜」と思うことはまあそれなりにあるけど、それでも私はなんだかんだ、今の自分という生を気に入ってもいるのだ。気に入りたいと思っているし、好きでいたいと思っているし、大事にしたいと思っている。どうせ一番長い付き合いをしていくのなら、仲良くしたいじゃないかと思う。仲良くなりたい。

 

 

 

今の私はケーキが好きだ。自分で買うケーキなら、甘さも大きさも好きなように選べるし、その日たまたま甘ったるそうなケーキが食べたくなったら、翌日に残してまた食べれば良い。苺のタルトもチーズケーキもモンブランもショートケーキも、食べたかったら買うことができるし、好きな量だけ食べられる。好きなものを好きなように食べる自由が、美味しいと思えるものを美味しいと思えるように食べられる自由が、大人の私にはある。私は、子どもの頃に享受できていた、何もしない代わりに決まったものを与えられる楽さよりも、今自分で得られている、何かをする代わりに自分で好きなものを選べる自由の方がずっと相性が良くて、息がしやすい。「遊んでばかりいられる子どもは楽」だなんて大人になった今も思わないし、全然戻りたくもない。色々面倒なことは増えるし考えることも増えるし、これからもっとそれは重くなるのかもしれないけど、それでも、私が私として生きることを容易くする術を探すことができる大人の方が、性に合っている。

 

ケーキの甘さを、今の私は幸せに味わえる。飽きることに怯えることも、美味しく食べたい気持ちすら分からなくなることもなく、今の私は、好きなケーキを好きな時に、好きなように美味しく食べられる自由がある。甘い幸せをちゃんと味わえる。小さい私に言ってあげたい、大丈夫、あなたはそのうち好きなようにケーキを食べられるし、混じり気ない純粋な気持ちで、素直に美味しいと思えるよ。今のあなたにはくだらなくないし、切実かもしれないけど、そのうち軽い気持ちでケーキを買って、軽い気持ちでケーキを食べて、次の日にもまた残りを食べて「朝のケーキは胃に来るな〜」とか思ったりするから。残念ながら胃はもたれたりするけど、それでも、食べたい時に食べるケーキはいつでもちゃんと美味しいから。

 

残り少ない今年も、来年も再来年も、自分の誕生日にも推しの誕生日にも、嬉しいことがあった日にも、ただケーキが食べたくなった日にも、好きなようにケーキを食べたら良いと、今の私は知っている。好きな甘さを好きに選んで、好きなように甘やかに生きていこうね。