とるにたらない話

日常の記録や思考のあれこれ

オムライス

 

 

とある舞台を観た日の帰り、そういえば前に行った喫茶店が近くにあったはず、と寄り道をすることにした。オムライスの美味しい喫茶店だった。

その日は夕方から雨予報で、私は傘を持っていなかった。空を見ればもうすぐ雨が降りそうなことも分かる。うっすら雨の匂いもする。それでも「せっかく近くに来たのだし」と喫茶店に寄ることにした。方向音痴の自分が、勘でかつて一度だけ訪れた店に辿り着けるわけもないので、場所を調べてみると、どうやら一駅隣の駅だったらしかったので、歩かず電車に頼ることにした。観劇前に軽くお腹を満たしただけだったのでお腹が空いていたし、確実に辿り着けるのならその方がよい。

 

一駅分電車に乗り、改札をくぐり、階段を上ると、それなりに雨が降っていた。あれ、もう降るのか。予報よりもだいぶ早い。傘なしで歩けばそこそこには服が濡れるだろう雨。さて、どうしたものか。

こういう時にいつも思う。なんか色々と事が上手く運ばない日、どこかで止めるべきなのだろうか、それはどこなんだろうか、と。何かのタイミングが合わない時というのは、実は最初からとことんずれている時が多くて、後になって「最初の段階でやめておけばよかったなぁ」なんて思う。けれど、"最初の段階"なんてものはその最初の段階の時点ではなかなか気付けない。気付けないけれど、引っ掛かり程度の微かな違和感は置かれていたのだな、と後に気付く。ただ、大体の場合それは予感ほどの強さは持っておらず、「んー」ぐらいの気の迷いで終わってしまう。最後の着地点まで気付けないこともままある。

 

 

外に出ると横断歩道の先にローソンが見えた。つい先日も傘を家に忘れて、外でその場しのぎの傘を買ったばかりだったので、しばらくその場で悩んでいた。またビニール傘が家に増えてしまう。このまま歩いていくか?いや、場所もきちんと把握できていない店にこの雨で?気温も下がっているし風邪引くのでは?いっそ今日は諦めて戻るか?

…………などとしばらく考えて、結局ローソンに向かった。またビニール傘を増やすことにした。「せっかく近くに来たのだし」が勝った。そりゃあ折角一駅電車に乗ってここまで来たのだから、オムライスは食べて帰りたいじゃないか。けれど風邪を引くわけにもいかない。コンビニの傘に800円弱出すのは癪だったが、消去法でコンビニのワンタッチ傘が選ばれた。この傘でハーゲンダッツが2.5個買えると思うと惜しい。

ローソンでやたら大きい傘を調達し、しばらくGoogle mapに頼り道を歩くと、思いの外近くにその喫茶店はあった。それでも傘は結構びっしょりになっていたので、やはり傘は買っておいてよかったなと思った。営業時間は電車の中で調べてはいたけれど、人が動いている店内を見て店が開いていることに安堵し、ドアに手を伸ばした。

 

 

ドアが開いた瞬間、ウッと顔を顰めた。

……………煙草臭い。えっ煙草臭い。店のドアを開けてこんなに煙草臭いと思ったのはいつぶりだろう。数年前に改正健康増進法だかが施行されて、店内で煙草を吸える店はかなり減ったはず、というか基準が厳しいとかで、喫煙可の店を見つけるのが難しいぐらいにはなったはず。学生時代バイトしていた店も施行される少し前から全席禁煙に変わっていて、「喫煙席の常連さんなんかは大変だなぁ」と思った記憶があるし、その時に「へぇ」と思いながらそんな記事を読んだ気がする。除外された店なのか守っていない店なのか。いやそんなことはどうでも良いけど臭いな。

 

ぐるぐる考えながら入り口に立っていると「いらっしゃいませ〜」と店員さんが奥から出てきた。何ならすぐにでも立ち去りたいぐらいには煙草臭い。しかし、そういう時にも「せっかく来たのだし」がまず頭によぎる。せっかく近くまで来たのだし。せっかく電車に乗ってきたのだし。せっかくコンビニでわざわざ傘も買ったのだし。せっかく雨の中歩いてきたのだし。せっかく開いているのだし。せっかく、せっかく、せっかく。"せっかく"は増えれば増えるほど判断を鈍らせる。そう、せっかく来たし、せっかくならオムライスを食べて……などと考えていたら、店内を見渡した店員さんが「お煙草は吸われますか?」と訊いてきた。吸いません。全然吸わないです。「あ、吸わないです」と答えると

今ですと禁煙席が満席でして、喫煙席ならご案内できるんですが……」と返ってきた。

 

喫煙席、喫煙席……?いや入り口ですらほぼ喫煙席みたいな臭いしてるのに、更に濃そうな喫煙席に?長いこと煙に囲まれるほどの喫煙スペースに立ち寄ってなかったので、恐らく大分煙草の臭いへの耐性が薄れている。そんな状態で、美味しくオムライスを食べられるのか私は?…………無理だろ。オムライスで胃が満ちる前に煙草の臭いで肺が満ちるわ。

「あっ……じゃあ大丈夫です」

会釈して店を出た。店を出て最初に吸った外の空気は美味しかった。

 

そこでようやく「せっかく来たのだし」が消えた。せっかく来てもオムライスを煙と一緒には食べたくないし、恐らくここで過ごす時間はオムライスよりも煙草の記憶で埋まる。むしろ禁煙席が空いてなくてよかった気がする。あの感じだと何となく禁煙席ですら臭いような気がする。ずっと臭いと思いながら食べるオムライス、あまりに虚しすぎる。ここで、恐らく最後の「引き返す」の札を選んだのだろうな、と思った。夕方から雨が降る予報。駅を出たら強くなる雨。800円弱の傘。今日はやめておくかの選択肢を選べる何度かの機会を逃し、"せっかく"を増やしては引き返す足に錘をつけ、結局店の中まで来て最後、その札を選ぶ。大変あほらしい。あほらしいけれど、多分店に入っていたらもっと何とも言えない時間を過ごすことになっただろうと思う。その難は逃れたのだ。

きっとご縁がなかったのだ、と頭の中で言い聞かせつつ、ローソンで買った、人が二人は入りそうなでかい傘をさして、来た道を戻る。ここまで来るともはや悔いはないが、オムライスは食べたかった。電車に乗りながら、オムライス、傘を買いながら、オムライス、歩きながら、オムライス、オムライス…とずっとオムライスを食べるつもりでいたので、すっかりお腹はオムライスを求めている。頭もオムライスを食えと告げている。さて、どうしたものか。

 

 

 

 

結局、大きな駅に入ってから、チェーン店でオムライスを食べることにした。

割と色んなところにある店だろうけど、もう良いのだ、オムライスを食べられれば私の腹と頭は満足する。店内はいくつか席が空いているはずが、謎に待ちの列ができているのは若干気になったものの、最早そんなことはどうでもいい。待てばオムライスに辿り着ける。それで良かった。夕食時には早いのにな、とか考えながらオムライスを待つ列に並ぶ。

 

席についてド王道のケチャップオムライスを注文した。店内はやはりあまり混んでおらず、店員さんもすぐ気付いて注文を受けてくれた。そしてそこまで待たず、私の待ち侘びたケチャップオムライスが運ばれて来た。店員さんが歩いてくる。けれど、私の目には店員さんはもうほとんど見えていなかった。嗚呼、オムライス。オムライスがようやく私の元にやって来た。目の前にオムライスが置かれ、店員さんが伝票をさして去った後「お前を待っていた……………………」とオムライスに語りかけたくなった。しかしそれは不審者なので、無言でオムライスをしばらく見つめる程度にとどめた。ようやく会えたオムライス。お前に会うために俺は電車に乗り傘を買い雨の中を歩きお腹を空かせ歩んできたのだ…………………と思ったけれど実のところそれは「あの店のオムライス」であり、目の前のオムライスではない。けれど空腹状態でしばらく歩き、ようやく辿り着いたあの店に入れなかった時点でもう目的は分からなくなっている。とにかくオムライスが食べられれば何でも良い気がした。オムライスであれば何でも良い。ついでに頼んでみたロイヤルミルクティ(有料)とやらが紙カップに入ったおまけみたいなロイヤルミルクティだったことには目を瞑った。

そうしてようやく、一口オムライスを口に入れた瞬間、「オムライスだ……………………」と思った。紛れもなくオムライスだった。その店のオムライスは以前も食べたことがあった。「美味しい…………!」と感動するほどではなくとも、裏切らない美味しさは保証されたオムライス。オムライス。私はこれを求めていた。オムライス。いや、正確にはこれを求めていたわけではなかったけれど、オムライスを食べられたのだからよしとしよう。ありがとう、オムライス。無心でオムライスを食べていたらオムライスはあっという間に食べ終わった。

 

 

 

 

無事オムライスに辿り着いて満足した私は店を出て、駅へ向かった。満たされたお腹に幸せを感じながら、家へと帰る電車に乗った。

 

ガタンゴトン、ガタンゴトン。

電車に揺られながら考える。私はなぜあんなに取り憑かれたようにオムライスを求めていたのだろうか。お腹が満たされると、頭も冷静になってくる。さっきまで本当にオムライスを食べることしかほぼ脳になかったのだなと自覚する。そもそもはじめは、「せっかく近くにいるのだから、昔友人と行った店で食べて帰ろうか」ぐらいの軽い気持ちだったはずだ。それがいつの間に。"せっかく"を安易に積み重ねるのは存外怖いことなのかもしれない。まあ、オムライス程度ならまだかわいいものか。

自分の数時間を頭の中で辿りながら少し怖くなる。"せっかく"も疲労も空腹もおそろしいものである。何かを果たそうとするうち、いつの間にか目的がすり替わってしまっている物語の主人公なんかを見て、「あなたそれじゃ本末転倒じゃないの……」なんて思ったりするけれど、どの口が言ってるんだ。気付けばオムライス如きに固執してしまうのだから自分も大概である。「せっかくここまできたのだから……」という思考回路は、人を戻れなくさせるのだな、とオムライスに学ぶ。

そんなことを冗談半分真面目半分に考えていたら最寄駅までもあと一駅になっていた。外を見るとまだ雨が降っている。当分止まなそうだ。ぽつぽつではなく、傘が必要そうな雨。電車に乗って、コンビニに寄って、傘を買って、店まで歩いて、そしてまた駅まで戻って。その時間はすべてが無駄足だったなと思ったけれど、傘だけは無駄にはならなそうだ、と思った、ところで気付いた。

手元にあのやけに大きい傘がない。

 

どうやらあのやけに大きい傘は、オムライスの執念とともに店に置いていかれたらしかった。そういえば反対側の椅子に立て掛けたのに持ち帰った記憶はなかった。何かに執着すると、気付かぬうちに何かを失う。私はオムライスを得た代わりに、あのワンタッチ傘を失ったらしかった。

オムライスは恐ろしい。